思い込みから自分を解き放ち
自分の人生を自由に実現したいあなたのライフコーチ

主な経歴
2006年 短大卒業後、北海道内の信用金庫に就職
2009年 JR北海道キャンペーンガールに就任
2010年 NHK函館放送局入局
5年間キャスターリポーターとして、情報番組やニュース番組のキャスター、生中継、
取材、原稿作成、映像編集など幅広い仕事を経験
2015年 NHK山形放送局入局 夕方ニュース番組のメインキャスターを担当
2018年 NHKラジオセンター入局 全国放送のラジオニュース番組を担当
2021年 放送大学学園入職 アナウンサーとして大学の広報番組、授業番組の朗読、ナレーション等を担当
自分史
【自分史】
〜幼少期〜
1985年北海道生まれ 父、母、私の3人家族。一人っ子として育つ。とにかく周りの空気を読む子供だったらしく、母と病院へ行った際、周りの様子をみて母の耳元に近づき、小声で話していたそうだ。
一方、いつも、どこへ行くにも母の隣にくっついていく甘えん坊の一面があり、抱っこが大好きだった。近所の人にも「もっと歩かせた方がいい」と言われるくらい、常に抱っこしてもらっていたそうだ。笑
また、当時着ていた洋服は、ほとんどが母の手作りだったそうで手塩にかけて育ててもらっていた。ワンピースやブラウスの他に、入園入学式の服や、帽子、ダッフルコートに浴衣まで手作りで、写真を振り返って本当に驚く。
小さいながらに、家族にとても大切にされていたことを感じていて、後にそれが、家族の期待に答えようとする無意識に繋がっていったのかもしれないと思う。
〜小学生時代〜
小学校3年生の時に、木造二階建ての家を両親が建てた。新築に引っ越して、とても嬉しかった一方で、引っ越してからの一時は、父と母が喧嘩をしていた記憶が残っている。
普段とは違う張り詰めた空気を感じて「私は何も口出ししてはいけない」と思い、静かに見守っていたが、内心、怖い、悲しいという気持ちでいっぱいだった。
その頃、ちょうど学校で「お父さんとお母さんはどんな人ですか?」「家でどんなことをしてくれますか?」という質問が書かれた紙が配られ、父と母のことを書かなければならなかった。
喧嘩をしている父と母の様子しか浮かばず、とても悲しくて泣きそうになったけれど、
「仲が良いように見えることを書かないと、先生が心配するのではないか」
「両親にとっても、喧嘩のことは知られたくないだろう」と考え、先生や家族の期待に応えようと思った。
悲しみをぐっとこらえて、頑張って楽しい話題を思い出しながら課題に取り組んだことを覚えている。
小学校高学年の時には、児童会選挙に立候補した。
普段は、授業で積極的に手をあげたりすることもない、大人しい子供だったけれど、
活発な友達の様子を見て「負けたくない」という気持ちになり、思い切って行動した。
結果は落選したけれど、挑戦できたことが嬉しくて、満足していたような記憶がある。
この頃すでに、チャレンジ精神は備わっていたんだろうな。
~中学時代~
中学校時代の思い出といえば、文集を書いた時の記憶が印象深い。周りの友達と違うことを書くのは恥ずかしいという気持ちがあって、友達が書いた内容を真似しながら空欄を埋めたことを覚えている。
例えば、好きな曲の欄には、自分は好きではなかったけれど、当時流行っていて、複数の友達が挙げていた、キンキキッズの「愛されるより愛したい」という曲名を書いた。なりたい職業の欄には、友達や母に勧められた、保育士、看護師と記入した。
本当は、どちらもなりたい気持ちはなかったけれど、自分が何をやりたいかなんて考えたこともなくて、周りから見たイメージ通りにいることが「自分のあるべき姿で、正解」だと思っていた。
周りと同じであること、他人の期待に答えることが正解という考えが強くなっていった。
三年生の時、卒業式の合唱で指揮者を担当した。
あまり記憶が残っていないけれど、おそらく、やりたいと思って自分で立候補したはずだ。
自分もやろうと思えばできることを実感したいとか、すごいと思われたいとか、そんな気持ちからの行動だった。
卒業生が歌った曲は、「旅立ちの日に」。
当日、どんな気持ちで指揮をしたのか、はっきり思い出せないけれど、卒業生全員が見渡せる高い台の上に立ち、指揮棒を振った。
こうして振り返ると、普段、友達に合わせて、他人の期待に応えるようにしている一方で、自分の力を試したいという気持ちや欲求も強く持っていて、チャレンジする自分もいた。
〜高校時代〜
3年生になり、進路を決めるタイミングで「就職のためには、とりあえず進学した方がいいだろう」と考えたくらいで、自分は何をやりたいのか分からなかった。
ただ、勉強は好きではなかったので、なるべく学生生活は短いほうがいいと思っていた。
それに加えて、両親から、資金面で短大のほうがありがたいと言われていたこともあり、短大受験を選択。
友達や母からは「保育士さんがいいんじゃない」と言われていて、特に子供が好きな訳ではないけれど「子供が好きな優しい人」と思ってくれている、その印象を壊してはいけないと思い、本当の気持ちを言えず、結局、地元の短大の幼児教育学科を受験。
誰でも受かると言われている推薦入学で受験したのに、なんと結果は不合格だった。
これには驚き、ショックだったが、どうにか進学しなければならないと思い、すぐに受験できる学校を探した。
そして、近郊の短大で幼児教育学科を見つけた。ただ、不合格だった短大よりも学力が高い学校で倍率も高かった。
とにかく合格するために、幼児教育学科ではなく、定員割れしていた福祉・家政系の学科を受験し、なんとか進学が決まった。
~短大時代~
予想外の学科に入学したが、合格、進学できたことが嬉しかった。
両親に幼い頃から「とにかく資格があった方がいい」と言われてきたこともあり、ホームヘルパーと中学校家庭科教員免許を取得しようと意気込んだ。
しかし、学んでいくうちに、どちらもやりたい仕事ではないと感じて、
一般企業に正社員での就職を目指し、2年生の夏頃、スムーズに信用金庫に就職が決まった。
就職が決まってからでも、将来何かの役に立つかもしれないという理由で、免許は取っておきたいと思い、ホームヘルパーの実習と、教育実習に参加した。
ただ免許を取りたいがために参加していたため「やらなければならない」という義務感が苦痛でしかなかったけれど、せっかく資格が取れるのだから取らないともったいない、あとで後悔したくない、親の期待に答えたいと、当時は自分がやりたいことではないと苦しみながらも努力を続けていたなと振り返って思う。
~信金時代~
信金に就職してからは、お客様担当として、窓口に配属された。
当時、働いていた支店は、まだデジタル化や自動化が進んでおらず、今のように受け付けを行う機械などがなかったため、どんなに忙しくても、窓口にお客様が来ると自分の業務を止めてでも丁寧に対応しなければならなかった。
そのため、先に預かっていたお客様の処理を途中で止めることになり、その分お客様を待たせてしまうことがストレスだったし、
お客様に何かを聞かれて答えられなかった時に、先輩や上司に質問しなければならず、「人を頼ること」に心苦しさがあった。
自動ドアが開くたびに「どんなことを聞かれるのだろう」「答えることができなかったらどうしよう」と、いつも怯えていた。
ある時、「いらっしゃいませ」と言おうとすると、声が出ない。
想像以上にストレスが溜まっていることを感じて、これはまずいと思った。
「ここは私のいる場所ではない」「私に合うもっと別な場所があるはずだ」という気持ちが強くなり、辞めることを決意した。
でも、「仕事が合わないから」という理由で辞めるのはダメなこと、それはできないと思い込んでいたので、結婚を理由にすれば辞められると考えた。
そこで、私が考えたのは、当時お付き合いしていた人と結婚することだった。彼と話を進め、両親にも紹介。会社には、退職の1年前に寿退社する旨を伝えた。
~キャンペーンガールに応募~
退職する3か月ほど前、北海道新聞に載っていた「JR北海道キャンペーンガール募集」の記事に目が留まった。
「定員2人のところ、まだ応募1人」と書かれているのを見て、
「もしかしたら、私でもなれるかもしれない」と可能性を感じ、応募を決意した。
仕事の昼休み、応募資料を取り寄せるため、意を決して電話をかけたことを覚えている。
オーディションは、仕事がある平日だった。
私を含めて3人しか女性行員がいなかったこともあり「お休みは取ってはいけない」という考えだったが、勇気を出して上司に事情を説明しに行った。
先輩行員が「髙橋さんの人生だから」と、快くお休みを受け入れてくれたのが嬉しかった。
私はオーディションに合格し、退職の翌月から、キャンペーンガールとして活動する事が決まった。
この時、既に結婚する気持ちはなくなっていて、自分でもなぜか理由はわからなかったけれど、このまま付き合っていくことはできないと思い、当時の彼とはお別れした。
あとで振り返ると、仕事を辞めるための手段として結婚を選んでいたこと、
そして、自分の進みたい道が決まったから、結婚の道ではないと、無意識に思っていたのかもしれない。
~アナウンサーへの道が開ける~
キャンペーンガールの活動の中で、地元のラジオ局で原稿を読む仕事があった。
収録後、パーソナリティさんが私に声をかけてくれて、
「あなた、読むのが上手ね!こういう仕事に興味ない?」と言われて驚いた。
そんな仕事は考えたこともなかったけれど、楽しそう!やってみたい!という気持ちになった。
キャンペーンガールの活動は1年。それまでに、次の働く場所を探さなければならなかったし、社会人になってからでもアナウンサーになれる試験があると聞き、やってみたいと挑戦することを決意した。
母からは、「あんた、夢見てるんじゃないの?」と言われ、一瞬そうかもしれないなと思ったけれど、自分のやってみたい気持ちに正直に行動してみることにした。
オーディション当日、
「どんなに苦労してもいいから、絶対にこの仕事をする」と、固く決意して試験会場に向かった。
会場に着くと、集まった人たちが自信満々に見えて、一気に自信がなくなり、
「なんで来ちゃったんだろう」と後悔する気持ちになった。
それでも、今の自分でやってみるしかないと、気持ちを切り替えて臨んだ。
結果は合格。アナウンサーとしての一歩を踏み出すことができた。
〜契約社員という不安〜1年契約
自分のやりたいという気持ちに従って行動した結果、新しい世界が広がった。
取材を通してたくさんの人に出会い、様々な場所を訪れ、体験したことを言葉にして伝えるアナウンサーという仕事は楽しかった。
しかし、仕事は一年更新の契約。
仕事を続けたい気持ちはあるものの、
「契約で仕事を続けていくのは難しい」と、常に不安が付き纏っていた。
そして、アナウンサーを始めて7年目の頃、ご縁があり、地元のケーブルテレビに正社員で就職することができた。
〜再び結婚を試みる〜
「正社員」という安定を手に入れたが、仕事が大変だった。
カメラ、三脚を担ぎ、自分で車を運転して取材に行くのだが、この機材が重い。
取材から戻ってくると、原稿を書き、映像を編集し、自分で音声を入れて・・・と、少ない人数でたくさんの仕事をこなさねばならず、残業も当たり前。
仕事を辞めたいと思った私は、再び結婚しようと考えた。
やはり、結婚を理由に仕事を辞めることが自分にとって便利な手段だと思った。
「結婚すれば、仕事を辞めても生活できる」
「結婚すれば、仕事を辞めても両親は安心するだろう」
結婚相談所に登録したり、友達に連絡をしたり、結婚するための相手を探すため、行動を始めた。そして、新しく出会った人と、3ヶ月で結婚しようという話に進んだのだ。
「やったあ!これで仕事が辞められる!今度こそ結婚だ!」
そして私は、寿退社という名目で退職し、お付き合いしていた人と結婚するために上京した。
〜コーチングとの出会い〜
上京して同棲生活を始めた。
しかし、彼との生活は全くうまく行かなかった。
「こうあるべき」という思い込みが強かった私は、生活スタイルや価値観の違いを受け入れることができず、この人とは合わないと感じながらも、結婚するために上京してしまったから、どうにか結婚しなければならないと悩んでいた。
ある時、友達に悩みを相談すると、「コーチング」というものを紹介してくれた。
初めて聞く言葉だったが「私の人生が変わるなら」と思い、コーチングを始めることにした。
「コーチになったばかり」ということで、1ヶ月、5千円で始めてくれたのだが、
形のないものにお金を出すことに抵抗があって、
この5千円で洋服を買った方がいいんじゃないかと迷いながらも、勇気を出して続けてみた。
コーチが話す言葉は的確で、私に刺さるものばかりだった。
でも、当時の私は「この人と話をしていれば変われる、変えてくれるだろう」という他人軸だったと振り返って思う。
そのため、コーチングが機能せず「私には効果がない」と感じ、半年でやめてしまった。
〜身動きが取れなくなった〜
彼との関係はうまくいかず、私は東京で一人暮らしを始めた。
アナウンサーの仕事も決まったが、やはり1年更新の契約だった。
これまで、タイミングよく次の仕事に繋げてくることができたが、
契約が終わるたびにオーディションを受けることにも疲れてしまっていた。
「いつオーディションが出るかもわかならい」
「合格できるかどうかも分からない」
「これ以上、アナウンサーの仕事を続けていくのは難しい」
「アナウンサーは年齢を重ねると需要がない」などの思いから、
「アナウンサーの仕事は諦めなければならない」と思い始めていた。
他の仕事を探してみても、やってみたいと思える仕事が見つからない・・・
何をやりたいかが分からない・・・
結婚したいと思っても、うまくいかない・・・
私は、何をどう行動すればいいのかが分からなくなり、身動きが取れなくなってしまった。
〜コーチングを学ぶことを決意する〜
そんな時、再びコーチングを思い出した。
コーチングを辞めてから3年ほど経っていたが、コーチの言葉が度々思い出されることがあり、頭の片隅に残っていた。
「もう一度、真剣にやってみたい」
「コーチになるための勉強もしてみたい」
そんな気持ちが湧いてきて、私は、最初にコーチングをしてくれたコーチが学んだスクール、ライフコーチワールドに申し込んだ。
これまで、形が残らない物にお金をかけることに抵抗があったけれど、初めて、学びのために、自分にとって大きな金額を自己投資した。そのくらい、私は真剣だった。
〜自分を縛っていたものに気付く〜
クライアントとしてコーチングを受けること、コーチになるための学びを同時に始めた。
コーチングを受け初めてすぐに、
自分の気持ちを相手に伝えることができていなかったこと、
常に相手を優先して行動していたことに気付いた。
特に、何か行動しようとする時、いつも両親のことが頭に浮かぶことに気付き、
自然と、両親の期待に応えようと行動していたことに気付いた。
友達や恋人、周りの人間関係も、全て、相手の期待に応えようと頑張って生きてきたのだ。
相手に求められた訳ではないのに、自分で勝手にそうしてきたのかと分かって 、心の重荷が取れたような感覚があった。
〜自分の期待に応える人生に〜
そこから誰かの期待に応えようと、自分を制限していたものを解き放ち、思い切り自分の人生を生きようと決めた。
今まで伝えられなかった自分の素直な気持ちを周りに伝え始めた。
最初は「どう思われるかな」「嫌われないかな」といった気持ちが出てきたけれど、
実際に伝えてみると、伝えた方が関係が良くなることに気付いた。
それから、「使ってはいけない」と思っていた貯金を使うことを自分に許可し、
やってみたい、食べてみたい、という自分の欲望に素直に行動するようにした。
特に、学びなどの「経験」にお金をたくさん使った。
独立して自分でビジネスをやってみたいと、起業について学び、
起業するとしても、自分と向き合うことがとても大切になることを知り、望む人生を生きるためには、自分を知ることほど大切なことはないんだなと改めて思った。
「やっぱりコーチングは最強だ」そんな風に気付いて、自分よりも他人を優先し、気付けば勝手に相手の期待に応えようとしている人に、コーチングで貢献したいという気持ちが芽生え始めた。
〜ライフコーチとして〜
2022年9月、コーチングスクールを卒業し、自分と向き合い、自分を知ることの大切さに気付いた私は、もう少し学びたいという気持ちになった。
翌月から再度コーチングスクールを受講し、2度目の卒業をした。
「この先どうしよう」と悩んでいた人生から、「何でもできる」と思えるようになったし
「毎日が平凡」から、「今日はこれがやりたい!」とワクワクするようになった。
「行動する前に躊躇する」から、「すぐにチャレンジできる」ようになっていった。
「相手を待ってしまう」から、「自分から声をかけてみる」が出来るようになった。
「このままの私ではダメ」から、「そのままの私だからいい」と思えるようになった。
思い込みに気付くと、どんどん自分の制限が外れていき、自然と行動が変化する。
とても人生が生きやすくなったと実感しています!!!
生きやすくなればなるほど、自然と求めていた人生も私についてくるようになりました。
ライフコーチとして、私のように、たくさんの思い込みを抱えて、何だか生きづらさを感じている人をサポートし、自分の期待に答えながら楽しく生きる人を増やしていきたい、そんな思いからコーチとして生きています。
少しでも人生に共感して興味を持っていただけたら、オリエンテーションに来てください。お話できることを楽しみにしています♪